自分でがんばるしかないんだ
2013年 04月 20日
人生は、自分でがんばるしかないといえば、確かにそうかもしれない。
先日、北海道に行った。
昔から北海道の人たちがよく、北海道の不景気はひどい、ひどいと言っていた。
だから、みな生活が大変なんだよと。
まだ雪も残っていて寒いから余計にそう感じたのかもしれないが、本当に寂しい感じがした。
札幌は今回行っていないが、千歳から小樽、岩内へと抜けた。
どこの町にっても人もまばらだし、観光客も少ないし、飲食店もガラガラのような気がした。
その後、沖縄にいった。
沖縄も似たり寄ったり、暖かい分、幾分気持ちは沈まないが、はやっている店はごく一部、季節柄か、勧告客があふれている気配がない。
産業があまりない沖縄が、この程度の観光客で大丈夫かと思った。
少しでも客のあまりいない店で食べてあげよう、とふと感傷に浸っている。
こんな感傷のあり方は、子どもの頃と変わっていない。
日本人の性か、何となく、そういう人々や光景に哀愁を感じてしまう。
客のいない店の中で、静かに一人テレビを見ているマスターや女将。
がんばって家族経営で何とかやりくりしている旅館。
こんなのは、昔から当たり前の日本の一風情?でありきたりのものだった。
しかし、何とかしてやれよ!日本政府。今のままじゃまずいだろ?って言ってしまいそうになる。
しかし、アジアやミャンマーの人たちと接していると、はじめから政府を頼っている人々なんていない。
当てになんかしていない。
当てにしても仕方がない。
何かあっても自分で、自分達でなんとやって行く。
それが当たり前。
洪水になっても、あっさりしたものだ。
自分達で掘っ立て小屋を作って、生活し、収まれば、当たり前に元いた場所に帰っていく。
毎年のように見る光景だ。
私がアジアで学んだ大切なことは、結局、自分でがんばるしかないってことだった。
誰かを頼りにしたり、当てにしたりしていたら、自分の能力が制限されてしまうということだった。
精一杯努力して、誰かに助けてもらうことはあるかもしれないけど。
北海道の人たちだって、沖縄の人たちだって、自分でがんばるしかないんだ。
同情をもらったって、他人の同情など長続きするわけがない。
今の若者も同じ。
結局は自分ががんばるしかない。
夢や希望がないというけれど、毎日、空爆にさらされた70年前の戦争中や戦後の焼け野原の頃の日本の若者達よりはよっぽど、希望や夢もてるだろ。
テレビの向こうのかわいそうな境遇にある子どもを見て、みんな同情してくれるけど、どうせすぐに忘れる人たちばかりだ。
人間というのはそういう生き物だ。
それを責めちゃいけない。
大切なのは、子ども達が自分達でがんばることだ。
ただそれだけだ。
その同情してくれた人たちの中のそのまた少ない人たちだけが実際に助けてくれるかもしれない。
それは神様の助けみたいなもので、本来、望んではいけないものだ。
だから、誰かに頼るこころではなく、何があっても自分が自分の力でがんばって生きていくんだ、という事が当たり前に根付いている人間をつくりたいと思う。