自分を本気ならしめる何か
2013年 02月 25日
昔、戦前の全日本柔道選手権 を何連覇もした男がいた。
柔道の鬼 木村雅彦、その人だ。
おそらく、歴代の柔道かで最も強い男として認識している人も多い。
その人に面白いエピソードがある。
日本選手権を控えたある日。
自分は柔道に命を懸けている、日本一に成れなければ死ぬと考えていたそうだが、果たしてその決意が本物かどうか?
口では何とでも言えるのだから。
しかしそれをどうやって確かめればいいのか?自分が命をかけて柔道をやっているということを。
やがて考えた挙句に、木村はおもむろに、正座し、左の下腹部に短刀を突き刺したそうだ。
そして、この突き刺した短刀をこのまま右に向かって引きさえすれば自分は死ねると感じた。
こうして木村は、自分が柔道に命がけの本気であると、悟ったそうだ。
私達は果たしてどうやって、自らが本気にそれを行っていると悟ることができるのだろうか??
それぞれにそのような方法を持たないといけないのかもしれない。
皆が木村のように、お腹に刀を刺すことができないのだから。
そこまで本気にならなくとも、生きていける。
ゆるく、軽く、衣食住を確保して、それなりに。
それもひとつの生き方、笑って納得する。
しかし、世の中には、3000メートルの山があればそれに登り、5000メートルの山が存在すれば、それを超えていこうとする人間がいる。
その命を懸けた緊張感が、生きている実感になり、日々の生活の密度を上げる。
ひとつ言えることは、その限界の緊張感を追い求める人間は、もちろんその世界を感じ、そして知り、人生を生きている。そして、ゆるく、軽く、生きるという世界も知っているし、感じることも出来ている。
しかし、ゆるく、軽く、衣食住を確保して、それなりに生きている人間は、その世界だけしか知らない。
本気で生きている人間の、部分集合になる。
私は、今、自らのそれを確かめるために、あることを実行している。
腹を刺す代わりに、あることをして本気を知ろうと思っている。
探検家の植村直巳も、のりを越えてしまったら、どんなに他人が大変だと思うような世界観さえ、満足せず彼にとっての困難である冒険を目指して、やがて死んでいったのだと、わかった。
多分そうすることでしか、彼は自分の人生の質と心の安定を維持できなかったのだと思う。
冒険家は、冒険の途中で死すのが、もしかしたら最高の死に方かも知れない。
じゃ、医者はどうなるんだ?
どこが死に場所なんだ?
コンピューターのプログラマーは?
教師は?
政治家は??
、、、、、????
人生の質に、満足し続けたければ、上に上がっていくしかない。
登山家はさらに上を目指し、医師はさらに困難な治療に向かう。
あなた方は自分の人生の満足を目指して、どこに向かうのか??