開祖を超えよ!
2012年 07月 04日
よく「道」のつく会からの講演があるとこの話をする。
武道、茶道、そして宗教も。
現存する大きな伝統宗教などは、平安から鎌倉時代にその流派が興されていることが多い。
それが1000年近く残って現在に至る。
それぞれの流派には,その始祖,すなわち開祖が存在する。
その宗教の一派が生み出された時代、日本は疫病や飢餓、災害など今の人たちが見ると目を覆いたくなるような状況だった。
世界中どこでも多分、同じだったかもしれない。
昭和の戦争前ですら、日本人の平均寿命は45歳程度だから、多くの子どもたちが死んでいた。
その少し前には,2 ・2 6 事件があり、東北地方の惨状を嘆いた一部の軍部がクーデターをおこしたとされている。
ましてや平安鎌倉時代、人は当たり前に死に、子どもたちの数人にひとりは普通に亡くなり、食べ物は始末で、食物は安定的に与えられることはなかった時代。
ただそこに生きているだけで、開祖たちは悩み、傷つき,考え、苦しんだ。
だからこそ、新たなる真理に目覚め、流派を興した。
今は,恵まれすぎて宗教者も、かつての開祖のようには悩み・傷つき・考えそして苦しまなくなっている。
だから、開祖の心が分からない。
開祖の生み出したその教えの真の意味が分からない。
それは武道の型に似ている。
型は,かつての達人たちが生み出したものだ。
すなわち達人でなければその方の意味を理解できないし、使いこなせない。
型はその達人が、未熟であった過程で創り出されたものではなく,完成されたあとに創り出されたという事実がある。
それゆえの理を真に理解し体現するためには、それを生み出した達人と同じレベル以上でなければ,理解できない。
宗教も,同じ。
それ故すべての求道者は、その在り方として 開祖を超える という志を持って修行しなければならない。
それ無き者は、その道を廃れさせる一員となる。
開祖がいかなるレベルにあろうとも、その道に入った限りは、それを目指さなければならない。
だから開祖を崇めてはならない。
崇めれば、そこには到達できない。
キリスト教のように、相手は神ではない。
釈迦も親鸞も日蓮も、千利休も小堀遠州も、植芝盛平も宮本武蔵もすべて人なり。
自らの個性を著しく開花させた人たちである。
心すべきはすなわち自らの個性の著しき開花。
これのみ心がけ日々、道を進む。