この前、東北で
2012年 03月 04日
先日、東北に行ったときあるボランティア看護師に
「先生は、怒りすぎだと思うんです。人は怒られては成長しません。ほめてこそ成長すると思います。」
と言われた。
そうかな??と私は純粋に思う。
今ではアメリカから入ってきたコーチングが大流行で、ほめることの利点にばかり焦点が当たっているが、元々は日本は、叱ることとあえてほめる機会を少なくすることが主流だったと思うけど。
それで日本の先人たちが、全く成長もせず、大家や名人たちが出なかったなら別だが、現実は歴史の示すとおり。
私はほめるという行為を、おいしいものを食べる行為のように理解している。
毎日おいしいものを食べ続けると、おいしいという感覚が鈍ってくる。
しょっちゅうほめると、ほめられても当たり前になってくる。
もっとおいしいものを、もっとおいしいもをという感覚になっている人が今もたくさんいいる。
そこで粗食など出されたら、食べている間中、多分文句と不平で心とお口は一杯になっているはず。
ところが逆だとどうなるか。
普段、質素な食事しか食べたことのない人間が、おいしいものを食べたときは、多分、卒倒するくらい心と体は満たされる。
要はバランスなのかも知れないが、ほめて育てることはかなりテクニックがいるということだ。
怒って育てるのには、ほめて育てるのと比べると大してテクニックは必要ないと感じる。
毎日毎日、満足いくおいしいご馳走を作れといわれたら大変難しい。
一方、毎日、粗食を作れといわれても、簡単なことだ。
それと似ている。
ほめて育てるのは相当高等な技術ということになる。
もう一つ、ミャンマーの現場に行っていないその看護師にはいくら言っても理解できないから言わなかったが、もし自分のせいで子どもが死んだら、その看護師がまともなら、生涯、トラウマをしょうことになるだろう。
すでに私はそうなっている。
だから、怒られることくらい軽いものだというのが私の気持ちだ。
人を自分のせいで殺めてしまったら、生涯、救われないだろう。
しかし、殺めたことのない人間には、その危機感がない。
殺すという、その結果が出て初めて、自分の状況を理解することになる。
時すでに遅し。
時計は逆には回ってくれない。
あなたなら、どっちを選ぶ?
私は間違いなく、ここに近づいたらえらいことになるぞと、叱ってもらう方がありがたい。
だからそうしている。
所詮、経験したものにしかわからない世界だ。
さっきの看護師も、自分がそこにいて地獄を見たらわかるだろう。
私もほめて人を育てたいものだ。
現地では、正直、少なくとも私は、そんな余裕はない。