ジャパンハートの代表。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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人生観の形相 その2-アジア的という人生観

人生観の形相 -その2-アジア的という人生感覚

 アジア的な人生観、特に日本人の人生観を考える上でどうしても分かり安く理解するヒントは、欧米の人生観を理解することにある。
 私が高校の頃の社会や大学時代の倫理の時間でこういう大切なことを教えてくれる人文社会の先生に出会えなかったが、これは本当に大切なことなので敢えてここで、書いておくのもいいかもしれない。(やっぱり中学や高校の教師たちはもっと勉強し、いつも本を読むべし!)

 デカルトという人がいた。1600年代のフランスの思想家で、近代合理主義の父と言われる人だけど、この人が
 「我思う,ゆえに我あり」と答えた。
高校の教師たちは皆そう教えた。教えたというか、そう言った、という方が正しいかもしれない。
近代思想が、何とか何とかと言いながら、、、。
そう言って、あっという間に次に進んでいった。
この言葉の本当の重要性に気付いていた教師はおそらく誰一人いなかった。少なくとも私の周りには。

これはそのものでは理解しにくいが、アジア的な人生観を理解するとよく分かる。
日本人は、自分を宇宙の星の中の一つと考えている。だから、もしその自分が寿命を尽きて、この世から消滅しても、宇宙はそのまま続く、と考える。
考える故に、自分一人の生き様や生死すら、世の中には大きな影響など与えはしないのだと考えてしまう。
だから、自殺者が、多いのかもしれない。あるいは、戦争中は、玉砕や特攻などという考えが正当化されたのかもしれない。自分たちは死ぬけど、きっと日本はそのまま継続され、きっと戦争に勝ち子孫は繁栄していると考えたのはそんなに瓢箪から駒の逸脱した考えでもない。
日本やアジアで輪廻転生が、大切に保存される所以もここらあたりにある。

 デカルトは言う、「我思う、故に我あり。」

 彼は言う、どんなにすばらしい宇宙もどんなに美しい花々も、私が存在しているからこそ意味を持つのだと。
 私のいなくなった宇宙や美しい花々など、どうでもいいものなのだと。
それは主を失った家のごとく、魂の抜けた肉体のごとくであり、存在していても、存在していないのと同じであり、価値などないのだ。意味などないのだ。


突き詰めてゆけば、戦争で、私が死ねば、祖国が残ろうがそうでなかろうが、家族が残ろうがそうでなかろうが、どうでもいいのだろうとう、いうことにすらなる。私が存在しない世界など、どうでもいい。

 これこそが、デカルトの主張であり、今の欧米人たちの生き様の根本にあるものだと理解している。

 個人の権利などはこれによって裏付けられている。この世に生きてこそ、私が存在してこそ、全てが初めて意味をなす。

 一体どっちを元に生きる方が我々は幸せなのだろうか?単純にそう思かもしれない。

ちなみに私はかなり強く、アジア的人生観に基づいて生きている。
美しい花はたとえ私が死んでも、その美しさは変わらず意味のあるものだと信じている。
しかし、人命を軽るんじたりはしなくなっている。

仏教で言うところの悟りは、おそらくデカルトの思想の延長線上では生まれにくい。
悟りの境地はおそらく想像するに、意識の拡大を意味するものだろうから、宇宙から地球を見下ろす視点がなければ、なかなか難しいからだ。
 アジア的視点の延長線上にこそ、悟りはあると考える。

アメリカ人やヨーロッパ人たちが一見、自己主張の塊のように私たちが感じる根幹には、このデカルトの思想がある。だって、自分が宇宙の中心にいるわけだから。

 そして今時の日本人は、どっちつかずで、迷走し、一番損な生き方をしているように感じる。
何せ、多分だけど、自殺するときすら、後は野となれ山となれ、で死んでいるんだから。
未来の永続性も信じれず、過去は否定し、現在に斃れるという感じ。それって絶対的絶望じゃない?
アメリカ人やヨーロッパ人ならば、せめて、自殺するときも、過去は良かったって少しくらい考えるはず。
 
 そこで次回は、じゃ、どう生きれば良いんだということについて私見を述べたい。
Commented at 2011-06-06 08:55 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by japanheart | 2011-06-06 06:55 | 医者の本音 | Comments(1)