南相馬を越えて
2011年 03月 23日
現在は、南相馬を後にした。
南相馬は、政府の指導で入院患者は救急車で市外や県外の病院へすべて搬送された。
市内は、閑散としていたが、役所の人たちは頑張っていた。
あと施設に、数十人の高齢者たちが残されているが、この人たちも市からの要請があれば、搬送には付き合いたいと思っている。
南相馬周辺から原発方面は、ゴーストタウンよろしく、人影もみなかった。むなしく、点灯いている店の看板や家々の明かりが、慌てて逃げ出さなければならなかったであろう人々の様子をうかがわせた。
海岸線は壊滅していた。
まさに壊滅で、泥の中に車も船も、家々の残骸もすべて混ぜ合わせれていた。
悲しい光景は、この場所で何が起こったかを、いやでも思い起こさせる。
本当かどうかは知らないが、福島で医療は足りているという県行政サイドからの返事。
情報すら把握できていないのに、そんなことを言って、本当に大丈夫なのか?
茨城では、医師会が、自分たちがやっているので間に合っているという返事。
本当に間に合っているのか?
現場の医者や看護師たち、医療関係者は、休みを取れているのか?
ある県の大病院関係者は医師会から要請があるが、医師会の要請にまで手が回らないとこぼしていた。
多くの人たちが現場を仕切りたいのはわかるが、今は助け合うときであって、コントロールをできているのだと勝手に満足する時ではない。
もし、間に合っていないところがあるならば、それを把握しないで適当なことを言ったり、情報収集の作業を中断していたりしていたら困るのは、住民たちだ。
自分の知らないところで、知らない間に梯子を外されている。
そして、私たちは東北に向かい、仙台にいる。
ジャパンハートの宮城派遣スタッフと合流した。