子どもたちを未来へ運ぼう
2011年 01月 16日
生理的欲求こそが、運命を変える
私がなぜ、海外で医療を行ったり、あるいはガンの子どもやその家族に関わったり、
エイズ孤児や貧困の子どもたちの施設「Dream Train」を始めたのか?
という根本的な答えを最近見いだした。
それは、結局私の生理的欲求だという結論になった。
たとえば、幼い子どもたちが3万円足らずで売り飛ばされ、
国境を越え、
わずか10歳、12歳で売春させられる。
その初めての日、彼らに前にいるのは見知らぬ大人であり、外国人たちかもしれない。
その夜の一部始終のその光景を、私は生理的に許容できない。
あってはならないとこころが嗚咽する。
それを許容すると、自分の自我も、自分の存在も全てが揺らぎ始めるのだ。
また、病気で悲しみ続けている幼子たちを、そのまま見過ごすことも、同様に私の存在そのものを揺るがすのだ。
だから、、、
そのような出来事は、私は自分の存在のためにこの世から消し去ろうとする。
それは、迷いもなく私の生理的欲求なのだ。生命的欲求なのだ。
子どものために、その親たちのために、そして私自身のためにやっている。
私自身がそうして始めた活動は、迷いはない。
食物を口に入れるのが迷いもないように。
空気を吸うのが当たり前のように。
同じように、私の存在を守る、大切な生命の行為になる。
だからやるのだ。
子どもたちの口に食べ物を運ばなくてはいけない。
今更、あの過酷な昔に返すわけにはいかない。
子どもたちだってよく分かっているだろう、自分がどうしてここにいるのかを。
たとえ3歳や4歳でも理解している。
今までは、きれい事が言えた。
しかし、これからはきれい事だけでいかなくなるかもしれない。
子どもの口に食べ物を運ぶために、覚悟を決めなければいけない。
病気やエイズになって死ななければ、将来、子どもたちは結婚でもして、自分の子どもを持つだろう。
そうして100年後、いのちはつながっている。
私は死ぬとき、誰からの賞賛も、見送りもいらないから、その子どもたちのまたその子どもが、
無邪気に遊ぶ姿を、誰からも気づかれずにそっと、遠くから見てこの世を去りたい。
私は人の生きた意味は、「いのち」がつながってゆくことだと思っている。
たとえ自分の子どもを持たなくても、それはできる。
「いのち」は「もの」にはない意味と可能性を持つ。
ひとりでも多くの子どもを未来へ運ぼう。
たとえ血などつながっていなくとも、それは自分の子どもとなる。孫となる。
ひとりの子どもに10人の親がいてもいい。
私のこころがあなたにも届くだろうか?