カンボジアから
2010年 06月 16日
カンボジアの空は碧い。
ミャンマーやカンボジアにくると、いつも空を見上げる。
日本で見る青空とはひと味違い、そういえば子どもの頃見た日本の空もこのくらい碧かったなと思いだす。
この1週間、カンボジアにいた。
手術も順調に終わり、明後日からミャンマーに移動する。
ミャンマーにいる、腫瘍の子ども、ライミョウはそろそろ寿命のようだ。
現実は、受容する能力を越えて厳しい。
容姿は大きくゆがみ、普通には生きてこれなかった13歳の少年は、弟にも妹にも優しいお兄ちゃんだった。
そして母親には、かけがえのいない大切な長男だった。
もうすぐ消えるだろういのちの灯火は、人間というもののいたたまれない存在の在処を教える。
最近思うことがある。
それは、寝たきりの子どもは、誰のために生きているのか?
もう動かなくなった植物状態の人たちや、ほとんど意識のない人たち、老人たち。
そのほか何でもいい、解決できないほどの障害を背負っている人たちは何のために生きているのか?
私なりに理解している答えは、それはそれに関わる周りの人たちのために、彼らは生きていると思えてならない。
どれほど、そのひどい状態の人に関わり、そこから何かを得なければならないのだろうと。
だから、その人たちを無視したり、邪見に扱ったり、義務的に接していたら、その人たちの献身的な恩に報うことができない。特に医療者は肝に銘じなければならない。
多分それは仏教やその他の宗教的な考えとも矛盾はしていないと思う。
神仏は、そのように具現化し、人を導くという考え。
そう考えると、ますます、そのような障害のある人たちに対するあり方を自分自身に対しては見つめ直さなければいけないような気がする。
今亡くなろうとする生まれて大きな顔の変形と共に生きてきた13歳の少年。
それに関わった私たちのスタッフ。
日本人の看護師。
彼らに神仏は微笑まないはずはない。
だから自信を持って言える。
彼らは昨日までの、彼らでなくなっている。
もっと愛情に満ちた人になれている。
そして、家族や看護師たちのこころに、記憶に、この少年は鎮座する。
多分、家族や看護師やスタッフが苦しくなったとき、語りかけてくる。励ましてくれる。
関わったものは皆、このたった13年で亡くならねばならない少年の、いのちをも背負ってこれからますます強く生きていかねばならない。